2019年8月8日 星期四

GLOCAL Vol.13

GLOCAL Vol.13
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2018 Vol.132018 Vol.132018 Vol.132018 Vol.139 許寿裳の家は現在の青田街6号にあった。台湾の住所地名は、一部については1945年11月に中国風に改められるが、その大部分が改名されたのは1947年2月に発生した228事件以降であるという。そのため当時は日本統治時代の呼び方である「昭和町」で呼ばれていたはずである。金溟若の長子である金恒杰の文章に「私たちは昭和町4番地2丁目に住んでいた」とある。私は金溟若と同じ町内に住んでいたのだ。 金恒杰の文章では、木造平屋の日本式住宅で畳敷きの茶の間にある出窓のガラスを通して目にする路地の風景や、父の金溟若が買って帰ってきた日本式の表札を取り囲んで家族であれこれ議論する場面や、引き上げを間近に控えた日本人が家財の整理のために路傍に蓆をひろげて売りに出している様子などが活写されていて、当時を偲ぶ恰好のよすがとなっている。 そして許寿裳教授殺害の報に触れ、「ひょっとしたら暗殺かもしれないな」と不安な表情を浮かべて父が呟くと、母が堪えきれず眉根を寄せて訴えた、「やっぱり帰りましょう、温州へ…台風に地震、今度は人殺しまで…こんなところにいたらいくら命があっても足りやしない…」。まもなく一家は台湾を離れた。 魯迅、許寿裳の知遇を得て、すぐれた日本語の語学力と最新の文芸理論を備えた作家として活躍した上海時代と比べて、台湾での金溟若は不遇であった。石教授のように政治に関与せず学術に携わる者として超然と生きんと欲するも、激動の時代に絡め取られ、再度の渡台後、追い詰められたかのように執筆した小説は反共抗ソを標榜する文芸雑誌の創刊号に掲載されることになる。この作家の悲運に思いを致すとともに、不思議な縁を感じざるを得ない。「石教授」をはじめとする彼の作品については稿を改めて論じてみたい。参考文献夏志清「教育小説家金溟若(代序)」、『白痴的天才:金溟若記念小説集』晨鐘、1974.12北岡正子ら編『許寿裳日記1940−1948』台湾大学出版中心、2010.11金恒杰『昭和町六帖』允晨文化、2017.11水瓶子『台北歴史散歩手帖』沐風文化、2018.7るのは蔵書検索で知っていた。台湾での生活に馴れて一段落した頃、気をつけないとページが崩れ落ちてしまいそうな合訂本を手に取り閲覧を始めた。 掲載されている作品の主題について言えば、「祖国在呼喚」「保衛大中華」「血戦南日島」というような題名を見るだけでもその内容がうかがえる闘争的で反共抗ソ意識を鼓吹するようなものがほとんどで、その創刊主旨に呼応するものであった。 その中で「ちょっと変わった」作品に出会った。金溟若という作家の「石教授」という作品である。梗概は次のとおり。広東の大学で教鞭を執っていた石凌如は、病気の母の看護のため長江下流の郷里A城に二年ぶりに戻って来たのだが、思いがけずこの街は共産党支配地域となってしまう。中国文学系出身の石凌如は、自由と真理を愛し、「学術に携わる者は、政治に関与しない」という固い信念を持っていた。国民政府の統治下でも、学問の自由の気風が不足していると感じていたが、だからといって大学時代の同窓生のように「進歩」勢力へ接近することもしなかった。 共産党勢力下に置かれた高級中学(高等学校に相当)の国語教員としての招聘状が石凌如の許に届く。母の病を理由に招聘を一旦辞退するものの、執拗に就任を迫られ家族まで累が及ぶことを恐れた結果、やむを得ず招聘に応じることにした。そんな折、親友の宋大良が出身階級を問題にされ、共産党に逮捕されそうになるが、石凌如は彼を匿い、逃亡を助けてやった。その後、新制の高級中学で教鞭を執り始めるが、教材の選択について共産党支部から横やりが入ったり、授業中は共産党員の学生の扇動によって攻撃を受けるなど、石凌如は精神的な迫害に耐えきれなくなり、A城から逃れて小さな帆船に乗り、家族を伴い台湾を目指すことになる。 以上のように、表面的には共産党による迫害とそれからの逃亡という反共小説の体裁を一応は取りつつ物語は展開していくのだが、『文芸創作』に掲載された他の反共抗ソを題材とする作品のように「共産勢力=邪悪、国民政府=正義」の図式に完全に依拠したものではないところが、この作品の「ちょっと変わった」ところなのである。 なぜこのような反共小説としては中途半端で、読む者に思索を促すような作品が、全面的に反共抗ソを標榜する文芸雑誌の、それも創刊号の小説としては第一作目に掲載されたのだろうか。 作者の金溟若(1904−1970)は、本名を金志超という。浙江省瑞安の人。幼い頃、父とともに日本に渡り、東京にて教育を受けるが、関東大震災の直前に帰国し難を逃れる。上海大学卒業。上海で魯迅と知り合い、師事する。有島武郎の作品の翻訳があるほか、自らの作品集『残集』(上海北新書局、1928)も刊行している。1946年、魯迅の摯友であり、当時は台湾大学文学院中国文学系主任であった許寿裳の紹介を得て、中国文学系副教授に就任。1948年に許寿裳が殺害(謀殺の説あり)された直後、台湾を離れて郷里に戻っている。郷里が共産勢力の支配下に落ちた後、再び台湾に戻る。高校教員、新聞社で編集者・主筆などを務めるかたわら、散文、小説を執筆し、川端康成や三島由紀夫などの日本文学の名著も翻訳、評論している。その人となりについては、最晩年に交流のあった在米の中国文学研究者夏志清の文章に「仇のごとく悪を疾(にく)む正直の人」との評がある。 ちなみに主人公の石凌如の名は、作者金溟若と、「石」と「金」(かたく、容易に変化しない)、「凌」と「溟」(混沌、暗い)、「如」と「若」(形容詞の後に付き、ある状態や様子を表す)と相通じていることと、作者自身の経歴と類似していることから、主人公を自らになぞらえていることは容易に想像がつく。昭和町 先述の通り金溟若は、許寿裳の紹介で1946年台湾に渡った。「終日暴風雨、夜に風弱まる…庭の花木が折れ、裏の金宅の竹が我が家のほうへ倒れていた」などと許寿裳の日記にあるように、住まいは許寿裳の隣家であった。

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